松平定敬~松平定敬~弘化3年(1846)~明治41年(1908)63歳 母は今西久太夫の娘・亀 幼名は欽之助 嘉永4年(1851)6歳。正室の規(水戸藩主徳川斉昭の姉)のもとで養育される 安政6年(1859)14歳。10月1日桑名藩主松平越中守が大病だったため 婿養子の内約が調い10月3日に桑名藩邸に移る 11月16日家督相続 桑名藩は慶長6年(1601)徳川四天王の一人本多忠勝が桑名城主となり桑名藩が成立 →伊勢国桑名郡・員弁郡・朝明郡・三重郡の10万石 安政6年(1859)伊勢桑名藩主松平猷(みち)が26歳で江戸で急死。 そのとき嫡男万之助はまだ3歳。猷の長女初姫の婿養子として定敬を迎え久松松平家(祖先は家康の異父弟、母は伝通院の於大の方)と遺領11万石を継がせた。このとき定敬は14歳。 元治元年(1864)4月11日、京都所司代を拝命し兄と共に崩れ行く幕府の屋台骨を支えつつ、京都の治安と朝廷をも守護しつつ日夜粉骨砕身努力する。 京都所司代とは 幕府と並ぶ権威をもつ朝廷の監察を中心に京都・伏見・奈良の町奉行及び奉行を監督し、西国大名の監視も行った。また畿内周辺8カ国の天領の訴訟を聞き、社寺も統括した 譜代大名から選ばれ,待遇は老中につぐ程重職であった。 ここから寺社奉行、奏者番を経て大坂城代から若年寄、老中と辿る まさにエリート出世コースだったらしい。 しかし定敬候が就任したこの時代、このような平時の官僚的要素での抜擢ではなく実兄である京都守護職、松平容保候を補佐する任であったことは容易に想像できるだろう 容保候が願って。と言う話もあったな。 慶応4年鳥羽伏見で敗れると朝敵にされ慶喜にも裏切られた。 このとき定敬22歳 以後、柏崎、会津と転戦し会津が籠城すると米沢へ援軍を求めて行くが、既に米沢は恭順に傾き藩主であり義弟でもある上杉茂憲と会うことも出来ず仙台へ。 仙台ではようやくやってきた榎本艦隊とともに蝦夷へ渡航を決め 改名一色三千太郎(三好?) 渡航後は戦いには参加せず(英語の勉強していたらしいっす)、箱館にいたが総攻撃を前に脱出。 4月13日、外国船に乗り25日上海へ。5月10日に上海を出発し18日に横浜へ着きました。 横浜で五稜郭降伏を聞いたでしょうか? 5月21日、東京へ行き正式に降伏。身柄は名古屋藩屋敷、津藩屋敷に預けられ、明治4年(1871)3月15日桑名藩屋敷に移され、27日東京発4月7日桑名に帰りました。 明治5年(1872)1月6日に反逆の罪(あるのか?そんなの(泣))を許され、許婚の初姫と正式に結婚。 しかし、新婚生活もそこそこに11月にはヨーロッパへ旅行。 その後明治27年(1894)日光東照宮の宮司となり明治41年(1908)年7月21日没。 死没直前に従二位を授けられた。 明治26年に容保候が日光東照宮の宮司を辞任したのでその後を受けた形です。戦後も容保候と定敬候は交流があったようですが、あの戦のコトを語り合うことがあったのでしょうか? どんなカタチでもそれはお互いにつらい出来事で、でも決して忘れてはならないことだっと思います。 *桑名藩士 服部半蔵 「松平定敬のすべて」「桑名藩戊辰戦記」 |